本質を見るチカラ
紀元前のインドで書かれた書物に“ウパニシャット”という聖典があります。
一冊ではなく、沢山のウパニシャットが存在するのですが
その中でもポピュラーなチャンドーギャ・ウパニシャットの中に、このような一文があります。
『たとえば愛児よ。一個の土塊によって、あらゆる土で作られたものは(壺や皿として)知られるであろう。(壺や皿という)名称は言葉による補足であり、(土の)変容である。真にあるものは土にほかならない。』
「有」の哲学チャンドーギャ・ウパニシャット 第6章 第1節より
これは、バラモン(司祭)と呼ばれるカーストの父親が、愛すべき息子にモノの本質を解いているシーンです。
“土の塊で壺や皿が作られるが、それは土が形を変えて名前を付けられただけで、その本質は土なのだよ。”
と、言っているのです。
さて、現代を生きる私たちはどうでしょう?
私たちは日々、目や耳という感覚器官を、起きてから寝るまでフル稼働させて情報社会を生きています。
モノの名前や形の情報を膨大にインプットし、そこに疑いはありません。
そして現代の情報は“土”よりも複雑で難解です。
物や情報の本質のみならず、対他人、対自分という関係においても本質は存在し、それは、更に複雑で深淵です。
インド古いの哲学は、それを知らなくても生きて行けます。
知らない方が、一見楽に生きていけるのかも知れません。
しかし、私たちの人生というものは儘なりません。
空の天気と同じく、晴れたと思ったら曇り、雨が降ったと思ったら太陽の陽がさします。
空はずっとそこにあるのに、厚さの違う雲に翻弄されて生きるのは大変なストレスです。
「空は変わることなくそこにあって、雲の厚さが違うだけ。」
本質を見るチカラがあれば、無駄な感情に一喜一憂する苦労から解放されて、平安な心でいられます。
日々、出くわす様々なことに感覚器官が翻弄されることなく、安らかな呼吸と共に落ち着いて本質を見つめるチカラ。
現代は情報を制することは大変重要ですので、全てを否定しているのではないのですが
ヨーガの時間が、
本質を見つめるチカラを養う時間
であれば素敵だと思います。
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